ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962、仏)

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ブレッソンは私が最も好きな映画監督・タルコフスキーが最も尊敬してやまない監督のひとり。

彼の映画はとにかく無駄がない。本筋に関係ない要素が徹底的に排除され、基本的に厳かな空気を遵守したまま話が進んでいく。見ている側は背筋をピンと伸ばして、一つのシーンも見逃さないように集中しながら見るような映画。

本作はかのジャンヌ・ダルクの裁判と牢獄でのやりとりと少しの独白、この三つをひたすら行き交うだけのシンプルな構成だ。

<解説>
撮影にイル・ド・フランスのムードン城の庭、及び地下室を利用し製作された、ジャンヌ・ダルクの裁判とその焚刑にのみ焦点を絞った、ブレッソンのストイシズムに貫かれた映像が怖いくらいの作品だ。敬虔なカトリック教徒として知られる彼のジャンヌ像は、カール・ドライエル(「裁かるゝジャンヌ」)やジャック・リヴェット(’94年の「ジャンヌ/愛と自由の天使」「ジャンヌ/薔薇の十字架」)のより人間的なそれより、幾分純化されすぎのきらいがある。もちろん、死の恐怖に脅える乙女の姿を描きはするが、それは地下牢の壁の割れ目から盗み見される光景としてだ。そこからジャンヌを火刑台に追いやったものに対する、ブレッソンの醒めた眼が感じられる。しかし最後、いよいよ十字架上の人となる少女がそこへ追い立てられよろめくさまを、狭い歩幅で歩く裸の足のみを追って表現する所、執行後の燃えつきた十字架、それを呆然と見つめる僧侶たち、近くを停まってはまた飛び立つ二羽の鳩を仰角で捉えるショットを積み重ねるラストの厳かさには胸をうたれる。
(allcinemaより)

正直、芸術におけるリアリズムというものがあまり実感レベルで分かっていなかったのだが(抽象的なものが好きな性分というのもあって)、本作しかり、『田舎司祭の日記』しかり、あまりに荘厳で冷徹な雰囲気に直面して「あぁ、こういうことか」と納得するほかない。そして映像が、映像の流れが何かを示唆し、何かを物語っていて、それが物語の進行とは別のベクトルで観客に迫ってくる。

本作に照らし合わせていえば、権力の象徴としての教会側の人間が、反権力の象徴たるジャンヌを裁こうと苦心する一連の流れがある。それとは別に前者が煩悩や性欲、我欲やジャンヌへの同情等の感情を露にすることで人間の脆さや正義の欺瞞のようなものを伝えんとしている。他方で後者も後者で、強がりながらも一人の場面では泣いたりして弱い面を出すことで「聖女」と相容れない性質である人間味が溢れ出ている。

こんなにも「人」が描写されているにもかかわらず、物語自体は強引に進んでいく。それ自体に何の色気もないという点が特筆すべき点かもしれない。にもかかわらず冷徹に人間を映し出すことで人間の本質が否応無しにあぶり出される妙な感じ。

結局のところ、ジャンヌは十字架に張りつけられて火刑に処されて話が終わってしまう。救いというものが全くない。こちらとしてはただただ映画の厳かさに圧倒され、人間の機微に直面するほかない。

現代の多くの映画は「はじめにストーリーありき」となっている。ストーリーを堅固にしてその流れに役者を配置して一義的な解釈しか出来ないような作品が溢れている。ただ眺めているだけで、それだけでいい作品が少なくない。それに対してブレッソンの作品はストーリーに注目したところで仕方がないので、どういう手法でストーリーというレールの上を歩んでいくかを注視するに尽きる。

何も映画や芸術に限らないが、世の中の潮流がストーリーという「体裁」に拘りすぎて、ストーリーの部分部分である細部を疎かにしてはいないだろうか。細部への徹底的な拘りがとにかく素晴らしい作品だ。・・・人にはあまりオススメ出来ないけれど。笑

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